こんなに調子良好で、これが正常状態なのかと、ほんとに不思議な気持ちがあります。
と言うのは、前回、「質より量の10kmはじろう」を始め、それを5回も行ったと書きました。
その後、日本に行き、山形県の出羽三山を登ってきました。その際、三山のひとつの月山で、高低差千メートルを越える急な下りを体験したのですが、膝の痛みも出ずに終えることができました。
こうして、諦めかけていた山歩きが再開できたばかりでなく、数年にわたって悩まされてきた膝痛も克服できたかのようで、まるで往年の身体がもどってきたかのような、驚かされるような喜びと充足感があります。
実はこの「10㎞はじろう」も、この出羽三山行きを決心したことから、その準備として始めたものです。
それに、一年ほど前の坐骨神経痛の発症があり、自分の体もこれまでかと落胆させられていたこともあって、この思わぬ諸故障の解消の達成は、ただ健康が回復できたというだけでなく、安堵や喜びをも通り越し、あたかも人生の質が大幅に改善されたかの、感謝の領域に達した感があります。
日本から戻ってからも、8㎞の「はじろう」をまず二度行い、今日は再び10㎞を「はじって」みたのですが、これまでの最高タイムを4分近くも短縮した、もう、「はじろう」ではなく、「走る」と呼んでもいいような、上々のできばえでした。
なんというのでしょう、こうして何度も10km走を体験することができると、これまでの自分の運動上の距離感が大きく変わってきた感じがあります。
それまでは、10kmといえば、走る圏内ではなく自転車や歩きの世界だったのですが、それが今では、うんと近く感じれるようになっています。
少々おおげさに言えば、世界が広くなったかの感覚です。
ただ今日のタイムは、勇んでちょっと早く走りすぎた感があり、「質より量のはじっりぷり」からは外れかけたかに思われます。
私はどうも、調子が良くなるとタイムを気にし始める性癖があり、前に膝を痛めたのも、その向上のためにストライドを広げようと、膝に負担のかかる無理な走り方をしたためです。
私にとっての運動は、記録作りのためでなく、健康作りのためであることははっきりしています。
そのためには、どこまでも、「はじり」に徹することが必要であるようです。
ちなみに、日本文化の特色のひとつの「わび・さび」は、失礼を詫びる「わび」、寂しさを積極的に取り入れる「さび」からきたものであるようです。私の「はじり」も、そうしたネガティブをポジティブに転化させる精神を引き継ぐものと言っては、余りな我田引水でしょうか。
日頃、街を歩いていて、杖をついたり、電動車いすに頼ったりしている人を見かけるたびに、私はまだ、自力で歩けるばかりでなく、山歩きすらできるのだと、自分の健康の度合いに、大いに感謝したい気持ちでいっぱいとなります。
まして、それらをいったんなりとも諦めかけさせられていただけに、自分の体の自然治癒力の偉大さと、その潜在力を信じ、それを引き出せたことの幸福さを、あらためて噛みしめています。
そしてさらには、こうした健康度がインフラとなって、自分の精神の働きにも、それだけ良好な環境を用意できている実感もひとしおです。