《性的自立》の有無

  越境体験=自覚的取り組み編=その22

QL-Day 315(2019年11月13日〈水〉)

さすがに今日の10キロはじりはきつかった。気温が27、8度あったためだ。それに最近は、温度への耐性も落ちてきている。それでも、標準タイム+43秒だから、さほど悪いタイムではないのだが、終わってからの疲労感が尾をひいた。

 

QL-Day 318(2019年11月16日〈土〉)

《性的自立》という言葉を考えてみるのだが、それは、自分が異性を必要とせず、一人で存在しうるという意味としても、それは明らかに自己矛盾用語だ。というのは、人間には男女があり、個人はそのどちらかであることしかできず、しかも、一方は他方を強く必要としている。つまり、いずれの性も互いに「対〔つい〕」でしかありえず、ことに、生殖を前提とする場合、片方だけではそれは不可能だ。従って、その限りでは《性的自立》はありえず、《性的依存》が原型となる。世界のどんな社会においても、夫妻を中心とした家族が不可欠となっているのも、これがゆえにであろう。

では、こうした性的な「自立」や「依存」という関係において、《性的対等》という用語を考えてみると、ことは複雑になる。少なくとも、生物的に、男女は異なった身体構造をもっており、けっして対等ではなく、人類という種の繁殖には男女の交接は必須である。つまりそこには、一方の支配隷属関係から他方の両生の対等関係まで、多彩なバラエティーがある。ことに男社会における女の隷属支配には、男の眼から見ても、見るに堪えないものがある(別掲記事参照)。

そうした性的「対」関係なのだが、それが、生殖という時期を終わらせた後となると、以上のような種の繁栄のための縛りからは基本的に解放される。

つまり、このポスト生殖期におよんで、人間はようやくにして《性的自立》を確立できる条件に至る。

ここでいきなり私情の表明で恐縮だが、私はこの頃、ようやくにして至ったこの安寧を満喫している。

それはなにも、性的な孤立を意味はしない。むしろ、だからこその、互いの個性の尊重によく目が届き、互いの違いを認め合うことができるようになれる。

 

QL-Day 320(2019年11月18日〈月〉)

もうずっとなのだが、自分の肌が乾いてカサカサとなり、いかにも年寄りじみてきたのが気になっていた。そこで思いついて、毎日のシャワーの際、石鹸を使わないでいたらどうだろうかとなった。つまり、石鹸の使用が、不必要に肌から脂肪分を取り去っているのではないかとの着想である。

もう、この考えを二週間ほど実行し、石鹸を使うシャワーは数日に一度か、プールで泳いだ日――水に加えられているカルキ成分が肌に残る――に限るなどにしてきた。

今日も、8キロをはじって大汗をかいた後、汗や汚れをお湯で流しはするが、石鹸は使わなかった。

お陰で、肌のカサカサはなくなり、少々しっとりとさえしてきた。つやさえもどってきた感がある。

どうやらカサカサは、必ずしも年のせいではなかったようだ。

 

 

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