この一週間、はじりはやめて、腰への負担の少ない泳ぎに専念。
そこに、導入したスポーツ時計による、運動中の詳細なデータが可視化できるようになり、これまた、情報過剰状態となっている。
ことに、これまでデータはとっておらず、そうとは知らずにいたのだが、心拍数(bpm)が、泳ぎの記録をあげようと頑張った際など、並ではないレベルに達していたことが判明。
通常、最高心拍数は、220マイナス年齢で計算される。それでゆくと、私の場合は142。それがこの時計の計測によると、なんと230にも達していた。最初は計り間違いかと、確かめのため、同じような泳ぎ方を繰り返えしてみたのだが、それも220をこえていた。どうも、データとしては正しいようなのだ。
調べてみると、負荷を極限にまでかけた場合、こうした数値はありうるらしく、要するにそこでは、もう酸欠状態に近い無酸素運動にまでなっていたということのようだ。たしかに、そういう時は呼吸がやたら苦しい。それに、それだけの負荷を加えることは、心臓には負担過ぎる。もちろん、高齢者には十分危ない。
いやはや、それほどに危険なゾーンにまで至っていたとは、正直、驚きだった。
自分の年齢といい、健康が目的といい、そこまで頑張らない120~130程度の負荷で、むしろ距離を伸ばしてみるほうが、脂肪燃焼の効率はよさそうである。
そういう次第で、この時計のお陰で、無知な危ない頑張りを覚ったしだい。
思うのだが、水泳での心拍数240という驚異的数値だが、それは、私の年齢では心臓麻痺レベルの危険ゾーン値だろう。それを、知らないでいたとはいえ、幾度も繰り返して行ってきて何ともないというのは、そういう“実験”結果として、私の心臓の働きが、いまだそんなレベルを保っているということではないのか。
それにこれまで、心電図をとっても、心臓の異常を指摘されたことはない。自覚としても、心臓の異常に結び付くようなことも体験していない。
過信は禁物だが、それほどに、私の心臓の年齢は若いということなのではないか。
いまや良くできた「スポーツ時計は現代のGP」、そう思う。
私のこの時計はフィンランド製で、進んだ福祉社会思想を背景にした特異な製品である。というのは、時計というより自動モニター装置で、持ち主の身体情報を逐一測定し、それをオンラインを通じてモニターしている。そしてそのようにして得たぼう大なデータから、特定持ち主の健康状態の分析結果をフィードバックしている。
ちなみに、この時計のアプリをフルに使うには、自分の情報を提供することを了承しないと使えなくなっている。つまり、当初から、この時計というGP機能とその使用者の信頼関係を前提に設計されている。
このGPは、その製品がスポーツ時計と銘打っているように、病気検知時計ではない。つまり、健康に前向きに取り組んでいる人に、より健康度を上げれるような分析を提供することを目的としている。その意味で、私にとっての健康思想にも沿ったものだ。
以下の動画を見ていただきたい。今日、控えていた「はじり」を久々に再開したのですが、これはその6キロの「はじり」の途中を撮ったものです。
さてそこでなのですが、実はその本人、この動画を見て、ショックを受けています。
久々のことで抑え目とはいえ、「なんだこれ、歩いているとしか見えないじゃないか」と。
(撮影係いわく。「走ってくるというからその積りで待っていたら、歩いてきた」)
これでも、本人は走っている、少なくとも「はじって」いる積りなんです。
その「はじり」とは、11年前、「走る」と「歩き」の間の、私「はじめ」が、よせばいいのに、いかにも「恥」丸出しでしているエクササイズをそう呼んだのでした。
だんだん遅くなるタイムから、キロ9分ならもう「歩き」で、キロ8分台はその手前のグレーゾーンです。それでそのあたりを「はじり」としたもの。
それから11年、「時計」によると、上の動画中の平均速度はキロ8分26秒で、もうここまで落ちると、本人がいくら「走って」いる積りでも、もう完全に、歩いている姿にしか見えないということであったわけです。
それにしても、これはもう、どこから見てもジジイで、これが「体育系老人」の実像というところでありました。
今日、はじっていて気付いたのだが、右股関節の違和感は、右足を着地する時、やや外股気味にするとそれが出ないことがわかった。つまり、微妙なのだが、足の軸を外側にねじり気味にすると言うこと。
そういえば、以前から、靴のかかとの減り具合で、外側角がへるので、それを直す積りで、足をまっすく立てて着地しようとしていた。それがいけなかったようだ。僕の場合、足は先を開いた「逆ハ」の字状の形状が正常のようだ。