三陸津波被災地、墓参、上高地、そして“千日”記念

私の健康エコロジー実践法 =長期戦編=第2期 その22

Day 170+985(5月23日〈火〉)

JAL772便でシドニー発。夕方成田に着き、新宿西口のWホテルにて泊。

 

Day 170+986(5月24日〈水〉)

昼、友人たちとの会合。

夕、結城へ。友人Mの墓参。

 

Day 170+987(5月25日〈木〉)

高崎へ。友人Nの墓参。

大宮泊。

 

Day 170+988(5月26日〈金〉)

仙台経由で、ローカル線を乗り継いで宮城県南三陸町へ。地元資本経営の「ホテル観洋」にて泊。

ホテル観洋(対岸の大きな建物)は、海岸の小高い台地にあるが、その2階までが津波によって破壊された。

 

Day 170+989(5月27日〈土〉)

南三陸町の津波災害語り部ツアーに参加。その体験者から語られる話は、涙なしでは聞けない。そうではあるが、誰もが聞いて胸にしておくべき話ばかりである。

津波に襲われる最後の瞬間まで避難放送を流し続けた防災庁舎。10メートルの地盤かさ上げ工事中の今、周囲を土手に囲まれたような格好になっている。

南三陸町(駅名は陸前戸倉)からバス運輸システムのBRT――鉄道に代わる運輸システム――の線路のレールを外した専用道路(トンネル部分が多い)と、在来の道路(主に流された橋の部分)の間を出たり入ったりしながら、所要時間は約70分で気仙沼駅へ。

この駅では、復旧した気仙沼線とこのBRTが同じ駅を共用し、一方のホームには列車が、他方のホームにはバスが止まっているという変わった光景が見られる。

気仙沼の駅は、ホームをはさみ、左手にバス、右手に列車が停車していて、いずれもJRの運行だが、めずらしい姿に変じている。

盛土によるかさ上げ工事が一部にしか実施されていない気仙沼の町は、すでに建物の立て直しはほぼ完了していて、一見、町が一掃されたかにはもう見えない。民宿Tに泊。

 

Day 170+990(5月28日〈日〉)

朝、気仙沼を発ち、午後2時には新宿に到着。日本の交通機関の便利さにあらためて感服される。

友人Iと落ち合い、さらに夕刻には、先に成田で別れた同僚のエイブおよび別の友人Oと合流し、四人で大久保の韓国焼き肉店で歓談。夜、新宿西口のWホテルにチェックイン。

 

Day 170+992(5月29日〈月〉)

ホテルから当面不要な荷物を京都のホテルに発送した後、新宿を出て、東京駅から北陸新幹線で長野へ。同駅からは、途中で昼食の名物そばをとりながら、まっすぐな参道を歩いて善光寺へ向かい、宿坊・淵の坊に到着。荷物をあずけ、さっそく境内を見物。

本堂に向かって左手の史料館(四重之塔)では、北京オリンピックの際、同寺が、聖火リレーの出発地となることを拒否したことに返礼したダライラマからの贈り物(金の仏像)を見学。

この時、不思議なことが起こった。同史料館は忠霊殿とも呼ばれ、明治以降の戦没者の霊を祀っている。そのため、戦争中の遺品も展示されている。それを見学した後、二人でベトナム戦争の“非体験”の体験談をこう話していた。連れのエイブは、徴兵カードを受け取っていながら、豪政府の政権交代のため、派遣寸前で戦場へ送られることは免れたと語り、僕は僕で日本の憲法のおかげで徴兵制度自体もなかったと語っていた時だった。同館正面の階段を上がってくる外国人夫妻があり、エイブが話しかけると、彼らはオーストラリア人で、なんと、彼とエイブは同年齢で、かつ同じM大学の出身であり、さらに、二人とも、かろうじての同様な参戦回避者であることが分かった。

偶然と言うにもあまりにも符合しすぎる話で、むろん、そういういずれもの経緯があって我々の誰もが戦死者とならならずにそこに居ることができたのは事実。おそらく、仏教や戦争やダライラマの件にいずれもが何らかの関心があったが故のその地への収れんがあったのだろう。また、比較的シーズンオフ期をねらった旅行者であったからとの共の好みもあったろう。そうだとしても、信心深い人ならきっと、「善光寺さんのお導き」と言うだろう。ただ、いろいろな解釈は可能としても、そうした不思議なことが起こった事実に変わりはなかった。

そうしてお世話になったこの宿坊は、さすがお寺の宿舎らしく、清潔さが隅から隅までゆきとどき、部屋の内装も数寄屋風に落ち着いている。それに加え、その精進料理――部屋まで運ばれる――が、味も質もバラエティーも一級で、おもわずうなってしまう水準だった。

 

Day 170+993(5月30日〈火〉)

その宿坊を9時過ぎに後にし、再び参道を下って長野駅へ。そして早めの列車で松本へ向かう。松本駅では、出迎えに来てくれた友人夫妻と合流して、車で松本城へと案内してもらう。

同友人は、車で上高地まで入れる許可までとってくれていて、途上、市郊外の名物そば処で十割現地そば粉のそばを食しても、もっとも効率的に上高地へ着けた。

上高地までの道路は、記憶している昔の悪路とは打って変わって実に立派に変貌している。だが、到着した上高地は、各宿泊施設の規模が大きくなっている感じはあるものの、昔とさほど変わった感はなく、清廉で高級な山域とのたたずまいはそのまま残されていた。そして車を降りた際、同友人から借用するアイゼンを受け取ったのだが、彼からは、それぞれの山靴に合うように適切な調節までしてもらえて準備万端となった。

その日の上高地での宿は、彼の山仲間が経営する西糸屋山荘。そのため予約も容易で、その主人にもじきじき迎えられて、少々特別な気分の上高地入りとなった。

 

Day 170+994(5月31日〈水〉)

朝、同山荘を845分に出発。930分、明神館に荷物の一部をあずけ、徳本峠へ向けて登山開始。ただ、この登山は足慣らしのためで、タイムは二の次。途中、若いカップル二組に次々においこされて、峠到着は1240分。地図が表す標準所要時間(2時間35分)から35分の遅れだった。

徳本峠から見た穂高連邦

明神館に午後240分に戻って、しばし休憩した後、梓川対岸の穂高神社奥宮と聖なる明神池を参拝。夕食前には、明神岳を見上げる浴室につかり、疲れを流す。

 

Day 170+995(6月1日〈木〉)

雪の斜面を直登する

天気悪化が予想され、7時からの朝食を待たず弁当にしてもらい、明神館を515分に出発。しかし外はもう小雨もよう。6時、西糸屋山荘に立ち寄り――忘れたサンダルをうけとり、また、ご親切に歓談室まで提供されて朝食――、ウエストン・レリーフを経て、7時、西穂高岳への登山口へ。登山者名簿に記入、しとしと降りの雨中を登山開始。やがて始まったきつい登りは休みなく、深い森林の中を上へ上へと続く。910分、最後の水場の玉水へ。地図の標準所要時間よりわずか5分遅れに気をよくする。いよいよ残雪が現れ始め、アイゼンを付けるころには、もう一面の雪。

急こう配の森林内の斜面を目印にそってほとんど直登する。アイゼンなしでは、足場が危うく、滑落の危険や余分なエネルギーも要してしまう。借用は正解だった。1045分、ほとんど登り切ったところで、二食目のお弁当で昼食。その後30分ほどで、登りがいきなり終わったところに、突然に西穂高山荘が出現した。1130分。地図時間(合計3時間45分)より40分遅れだが、昼食の時間を引けば20分遅れ。この歳の登山者にしては上出来のタイムだった。

水場前のやせ尾根上の平坦地を除き、登りっぱなしの登山道。ことに急な雪斜面を直登する最後の登りは、高度もあって、さすがに息切れがし、立ち止まされるのも頻繁だった。

 

Day 170+996(6月2日〈金〉)

もし、天気が良ければと予定していた計画は、悪天のため、ことごとく不可能に。加えて、下山に使うはずのロープウエーが強風のために運行を停止、西穂山荘にて丸一日、足止めを喰わされてしまう。お陰で、露天温泉につかりながら穂高連邦を眺めるはずの今回の山行のハイライトはおじゃんに。

 

Day 170+997(6月3日〈土〉)

荒れ模様の一夜が明けると、快晴の朝。雲海の上に、山々がくっりきと眺められる。

西穂山稜から見た飛騨側稜線。最高峰は、その姿通りの笠が岳。30代の初めの晩夏、この稜線、双六、鷲羽(往復)、西鎌尾根をへて槍に登り、上高地に下った山行を思い出す。

だが、足止めによる遅れをとり戻すため、西穂稜線での行動は断念して、朝一番のロープウェイで下山。谷底深くへと下ってゆくゴンドラからの眺めに、自分たちがいかに高山に居たかを再認識。オーストラリア暮らしで視線を水平に移動させることに慣れ切っていたためか、それとも、自分の肉体的能力の衰えがゆえの圧倒のためか、その高度感がこれほどのものであったかと、一種の驚きさえ感じてしまう。 

そうして到着したロープウェイ駅より、バスで高山へ、そして特急列車で名古屋へ。

名古屋では、連れのエイブと東と西に別れて、私は京都へ。

 

Day 170+998(6月4日〈日〉)

泊まった京都駅前のホテルで朝食、ただちにチェックアウトして、知恩院へ両親の墓参りに。ただ墓参りとは言っても、永代供養となっている両親に墓そのものは存在せず、本堂――大修理のため代りのお堂――への参拝がそれに代わる。

最短時間でそういう墓参をすまし、すぐさま京都駅に引き返す。そして、老人ホームに入っている叔父――子供時代、よく私と遊んでくれた――との面会のため尼崎へ向かう。ただ、昨年に面会した兄や妹が、全く認識されずに終わったとの話を聞いていたので、寂しいながら、その覚悟で同ホームを訪れる。

受付をすまし、怖いような気持ちで、数年ぶりの面会にのぞむ。

叔父は車椅子に座し、白髪を長く伸ばし、老婦人のような、いっそう細々とした風貌だった。私が名を名乗ると、「はじちゃんか」と、私の子供時代の呼び名で返答する。彼は間違いなく私と認識している。彼の手をとって握りしめると「痛タタ」と声を出して笑いさえ浮かべる。

さっそく話がはずみ始め、共通の趣味のひとつ、山登りの話に。私がカメラに収めてきた昨日までの写真を見せ、それぞれの山々の名を告げると、彼ははっきりとそれに反応し、往時の彼らしい口調で受け応える。それどころか、私のカメラのモニターのフィルムの角がわずかに浮いているのをすら目ざとく見つけ、「どうしたんだ」と指摘する。かつてのカメラマニアの彼らしい鋭さもまだ残っている。

他の共通の趣味である自転車の話題に移り、最近の私の自転車に関するかなり専門的な事を話題としても、そのいちいちに的確な受け答えを見せる。そうした限りでは、彼の「認知症」は聞くほどには深刻ではないようだ。

こうして私たちは大いに意気投合したのだったが、時折、彼は唐突に不思議な話に焦点をうつし、脈略のない人物や話題を登場させる。そして、人が上から降りてきたとか、虚空に目をやってあそこに誰かが%

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