「やればできるじゃないか」

越境体験=QL;コンタムライフ実践編(その7)

QL 1Year+107Day(2020年4月9日〈木〉)

今日は遅くなったこともあって、短めに切り上げるつもりではじり始めた。気温が20度少々と涼しく、いつもより快調だった。その結果、いつもの半分の4キロで29分38秒と、キロ8分の標準ペースを大きく下回った7分24秒との、びっくりするようなタイム。

さすがに、これだけペースを上げると、呼吸がそうとうに苦しい。久々に、胸の真ん中が痛むような呼吸を味わった。キロ8分を36秒も切るタイムに、「やればできるじゃないか」との気分。

 

QL 1Year+111Day(2020年4月13日〈月〉)

今日は、「やればできるじゃないか」の再現を期待して走り出したのだが、柳の下に二匹目のドジョウはいなかった。6キロが49分50秒という、おそまつ。

 

QL 1Year+116Day(2020年4月18日〈土〉)

これは、じじいの独白談。

もう幾度も触れてきたがED絡みの話なのだが、それの自覚と並行して、別面で進行してきたもう一つの自覚現象がある。それは、女性を見る自分の目である。

たとえば、寿司修行の店で働いていた際、共に働くワーホリ女子に、じっと見とれている自身を幾度も体験していた。

彼女らは、ともかく美しく――いわゆる美形だからというより、若さゆえの“磁力”に満ち――、それに、“引き付け”られいた。

これは、ED以前時代とは、決定的な違いである。あの頃の目とは、獲物を狙うアニマルの目で、あわよくば獲得しようと(即行動に出るかどうかは別として)、下心ありありのそれだった。

だが、今のそれは、一種、芸術作品を見る目にも似たものがある。獲物のキャッチ自体はもう目下の関心ではなく、それを玩賞することを楽しんでいる。だから、しいて言えば、(彼女らが)そういう私を毛嫌いせず、「好じじい」として親しく受け入れてくれさえすればそれでいい。そんなしおらしさである。

それを生物現象として見れば、生殖能力の“実力”に応じた、当然の必要の違いからくるものだろう。早い話、ED者が仮に獲物を獲得できたとしても、それをどう食すのか。

むろん、腹の隅には、EDも突如消えうすような機会への期待は残っている。そんな「花咲じじい」物語を、以前、ウエブ散策中に偶然発見し、記事にしたことがある(そこに引用した話は、案外、どこかのじじいの創作かも)。ともあれ、「たそがれゆく男たち」の憐れみ合いといったところ。

そういうわけで、かってなら、何をしでかすか放っておけない自分があったが、そうして「枯れてきた」自分を体験して、以前にも書いたが、どこか《ほっとする》ところがある。

ちなみに、「メタ・ファミリー+クロス交換/偶然(1話~9話)」と題した小説は、今になって想えば、そういう自分の“晩夏”を描いた記念作品であった。

以上、危なげが無くなったという、危なげな話。

 

QL 1Year+117Day(2020年4月19日〈日〉)

コロナ対策の外出禁止通告により、許容されている希少な外出機会である「戸外の運動」を求め、私のいつもの「はじりコース」は、それこそありとあらゆる家族連れで、乗っ取られ同様の状況。おかげで、私のような“想定外クラス”のランナーなぞは、そこで大手を振るのは、なんとも肩身が狭い。まあ「70歳以上は弱者」と特別扱いされている手前、当分は鳴りをひそめているか。それとも、スーパーでの買い物のように、「シニアタイム」でも設けてもらうか。

 

QL 1Year+119Day(2020年4月21日〈火〉)

外出自粛の日々が続き、おのずから自宅食が増える。うまい具合となったものだが、修行の結果は、そんな家庭仕事にもろに役立っている。

 

 

 

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