〈出来なくなる体験〉=〈小さい瀕死体験〉

TST Day 133(2022年8月7日〈日〉)

二週間の、タイ、カンボジア旅行への出発。またしても(6年前のNZ旅行)、空港でビザ問題発覚。この4月で再入国ビザが切れていた。乗り継ぎのシンガポールでの真っ先の仕事は、空港内からオンラインでのその申請。料金は430ドル也。これでこの先5年間、オーストラリアからの出入りはOKだが、旅行しない場合、無駄な出費ではある。

 

TST Day 134(2022年8月8日〈月〉)

シンガポール空港で7時間過ごし、早朝、バンコク着。さっそく、カンボジア行きのバスターミナルへゆくものの、直行バスの運行は中止中。国境での乗り継ぎになるか。

 

TST Day 136(2022年8月10日〈水〉)

〈出来なくなる体験〉というものは、自分の意志とは無関係に、忍び寄るようにやってくる。

ほんの昨日まではできていたことが、気が付くと、というより、それが出来なくなっていることに気付かされて、否が応でも気付かされる。

そこで本人に起こることは、やり場のない〈怒り〉である。ところかまわず、周りに当たり散らすこととなる。

そんなどうしようもない憤懣を抱いたまま、疲れに押されて眠りにつく。

そんな眠りの中で、夢としてのメッセージを受け取る。

そういう憤懣にある男が、誰からともなく聞かされる話として、それは告げてくる。明確には再現できないのだが、完全であることを前提としていることの不完全といった話である。その不完全を容認できることが完全であるといったメッセージである。あるいは、完全、不完全といった、そんな枠組みがあることを問題としていること自体の誤りの指摘である。いや、こう書いてしまうと、そんなものではなかった感じの残存しているそのメッセージである。依存する身体と、その出力の上に点灯している意識という二者があって、その足を引っ張る身体を、認めるのか認めないのかの問いにさらされている意識である。

ここにある、身体から乖離した意識の存在を見る。5年前の脳負傷の際とよく似た体験である。ただ、大きな違いは、それが脳負傷といったドラマチックな出来事をともなっていないことだ。いうなれば、小さな瀕死体験による、こうした乖離体験である。

そこで最も不思議なのが、それが、眠っている間に、私に告げられきたメッセージとしての起こり方である。つまり、この夢を作って、そういうメッセージを送り届けているのは誰なのか。

ともかく、私はそのメッセージを受け取りながら、片一方で、それをその〈出来なくなる体験〉の解決法として聞き、他方で、それが自動的にブログ原稿となっており、それを読んでいるかのようにして受け取っていたのだった。

むろん、ブログを開いてみても、その原稿はそこになく、こうして、意識として打ち込みながら、原稿としている。

ともあれ、〈出来なくなる体験〉という〈小さい瀕死体験〉をもって、その乖離は間違いなく起こっている。むろん、小さい体験だから、怒りにまみれてやり過ごすことは可能だ。しかし、それが十分大きな瀕死体験となれば、本当の死体験ともなりかねない。ともかく、小さいものを重ねてその体験をするのか、いきなりドラマチックな大きいものとしてそう体験するのか、そんな違いのスペクトラムである。

ならば、その十分大きな瀕死体験の際も、そういう夢からのメッセージを受け取りながら、死を体験しているのだろうか。

だとするなら、心身の乖離というのは確かに起こっているのだろが、それはもう目覚めはなく、原稿化ももちろんない。

ならばこの原稿は、少なくとも、小さな死の体験の小さな心身乖離体験記録ということとなる。

こういう小さな死は、死までに何回繰り返されるのだろうか。

 

そういう、現実を意識が正しく受け止めていなかったという現象――情報インプット――は、脳という、生命体としての受容装置の不全を示している。

逆に見れば、その情報インプットの正確な積み上げ状況が知性ということで、その情報蓄積が生命活動であり、その複雑化が進化ということとなる。

 

実際には、心身乖離を、気にする人と気にしない人の違いがあるのは確かだ。

それが気になるとは、自分の認識以上のものがやってきていることへの感受性の問題のようだ。

気にしないとして、生命の働きを平面的に捉えるのか、気にして、それを立体的に組み上げるのか。(バンコックにて)

 

TST Day 137(2022年8月11日〈木〉)

旅行者の減少で、タイ・カンボジア間の国際バスの運行は停止中だが、中小のバス会社がマイクロバスを使い、互いに、国境までの運行をしている。そこで、タイ側の国境までまず行き、そこで国境を越え、カンボジア側のバスに乗り換え、シムラップまでゆく。国境越え手続きの2時間を加え、合計約10時間の旅。両側とも、平野をゆく、風景的には短調なバス旅行だが、タイ側のけっこうよくできた道路事情と比べ、カンボジアのそれは見劣りも甚だしい。

しかし、到着したシムラップ(アンコールワット観光の町)は、30年前の貧弱さとは比較にもならない別天地。もはや大きな観光都市といってもいいほど。その世界遺産の集客力のすごさを目の当たりとする。今はコロナでやや閑散としているが、訪れる旅行客は優に年間200万人を越えているという。

 

 

TST Day 138(2022年8月12日〈金〉)

思考実験として、自分を一つの素粒子として考える、つまり、観察してみる。よってその観察者は、宇宙の普遍の意志態という存在――こういう主客逆転を《量子逆転観》と呼ぼう――である。言い方を変えれば、自分の物体的存在、つまり、命という地球的ローカル性の気付きと、そういう存在でありながら、その普遍存在の視点を持っているという有限と無限を合わせ持つとの《二態性》。

自分が、終局的には素粒子から構成されているとするなら、この二態性は、素粒子のそれを共有したものとしても何ら不思議はない。

言うなれば、膨大な宇宙からすれば、素粒子だろうが人間だろうが、さほどの違いはないのだ。

そうした思考実験の結論から言えば、物理学者たちが言う「収縮」とは、自分が普遍的存在、少なくともその思考や論理が普遍的なものであるはずだったことの、ひとつのローカルでちっぽけな存在に過ぎなかったことへの自分自身の「収縮」をそう呼んだものだ。そして、彼らの言う「観測問題」とは、この《量子逆転観》つまり、自分を収縮させて微々たる存在として見るという視点への“転落”をそう謎めかして表現していること。

どうやら、彼らが使う他者を寄り付かせないそうしたいかにも難解な用語は、そういう彼ら自身の狼狽を互いに隠し合うための隠語と見たほうがよさそうだ。

(カンボジア、シミラップにて)

 

TST Day 140(2022年8月14日〈日〉)

プノンペン入り。食当たりで腑が抜けたよう。現地に住む友人と会う。

この地も、昔の記憶とは様変わりしている。最近出来たという日本資本の大規模ショッピングセンターを訪れる。消費を先導し、そういうアジアの均質化を引っ張っている。

友人は、カンボジアで、現地の若者を日本に送り出す日本語とスキルの訓練機関を運営している。寮も備えた施設で訓練生たちと生活を共にしている彼――事業家というより献身人との印象――は、経済の低迷と円安で、日本がカンボジアの人たちへの魅力の度を落としてきていると残念がる。深刻な人手不足の時代にあって、デリケートだが必要な橋渡し役の一端を担っている。

 

TST Day 145(2022年8月19日〈金〉)

昼過ぎ、帰宅。今回ほど、ホテルに釘付けの旅行は異例。暑さと食当たりで、行動が極めて制限され、やむなく、ホテルでのオンライン仕事に精出す結果となった。

 

TST Day 146(2022年8月20日〈土〉)

76歳の第一日目のエクササイズは、10キロのサイクリングと、8キロのはじりと盛沢山。タイムもまずまずなのは、体重が2キロほど減っていたせいか。ただサイクリングは、修理済みの携帯を受け取るための生活実務のためなのだが、電車が運行していないため(線路工事でバス振り替え)のもの。

Bookmark the permalink.