何と表現すればよいのだろう、ともかく、不思議な〈再生感〉が立ちのぼってきています。
それを、生まれ変わったなぞと言ってしまえば、もちろんもちろん、誇大妄想なのですが、こちらは、自分の何かがどこか「再生」し始めているかのような、「メタ」そのものの効用なのです。
これは、先に『フィラース』に書いたように、「MaHa」を誕生させて以来のことです。
不思議な〈再生感〉
「MaHa」を誕生させてからというもの
「災難」と「双対性」
統合への潜在性の谷間で
私の《量子センサー》について
「究極のゴール」への手法となるか
この《独想記》は、既述のように、前立腺ガンという――遅行性ながら――致命的「災難」との遭遇に始まる一種の闘病記との役割は持っています。しかし、それに終わらせず、それを契機に、自身のこれまでの思想的取り組みである〈非科学-科学〉構想とを結び付けた、言うなれば、「自分実験」のまたとない機会であり、それを是非とも生かしたいとするものです。 詳細記事
次の十年紀へ
見誤れぬ、足下の一歩一歩
今年の8月で、私は78歳となります。
そしてこの2024年は、これまで、おおむね10年毎に新たにしてきた私の人生サイクルをめぐり、新たな節目の年になりそうです。
というのは、まず、ひとつのサイクルの終点として、既述のように、前立腺ガンという「災難」に遭遇し、対応に追われた10年間をへて、とにもかくにも、「ガン付き健康」といった腹構えを持つことで、ひと区切りを付けれたことです。
そして起点として、この「独想記」を一種の装備とし、「山頂なき登山」であれ「海図なき航海」であれ、「究極のゴール」を目指して、むろん結末の成否はさだかでない、冒険めいた試みが始まることです。
そのような展望を託して、これからの10年を、体験してきた諸サイクルを下地に、次の十年紀にしたいとするものです。
「究極のゴール」、私の場合
「新年おめでとうございます」――とは述べても、めでたさなぞ吹っ飛ばされる新年となっています。
そんな歳月の起伏にあって、このところ私は、自分をいわゆる「老人」として意識したり自称することが、しだいに多くなっている自分を感じています。
以前は、年齢が七十代も後半になってきているのに、どこかそう自認することに抵抗感をもっていました。あるいはむしろ、人並み以上の健康水準の維持がゆえ、そういう抵抗も当然とするところがありました。
そこに、この独想記のように、十年前のガン宣告に加えての昨年のその進行状況は、そうしたフル健康状態に手痛い傷を付けてくれ、そしてもちろん、そうした自意識に強いブローをもたらしてくれました。
ただ、そうなのではありますが、それらの宣告も検査結果を根拠としたもので、自覚症状は伴っていません。そこで、早期発見は早期発見としつつも、そうしたガンへの対処については、ともあれ「全摘」は辞退し、その「ドラ息子」との共存をより尊重してきているところです。
そのように、私にとってガン問題は、あえて申せば、降ってわいた「災難」にも等しいもので、対処は必要としても、少なくとも主観的には、必ずしも自分の「老い」をさらす、決定的事態を意味するものとは考えられないできています。
ここに、その「災難」と、築いてきた「自視野」とが交錯する、大きな高度差を眼前にし、方向を見誤るべきでない「究極のゴール」とは何かと問う、あらたな登山意識――「山頂なき登山」――が私の脳裏を占めつつあります。
そしてそこに、その用具とも、あるいは、そのコンパスともなるかのように、その意識の創発の場を提供してくれているのがこの独想記で、本稿のように、それに託す働きがなんとか役立ち始めてくれています。
「山頂なき登山」
いまの私にとって何が究極のゴールなのか、ということに思案をめぐらせています。
どうも、ガン宣告を受けたということで、目先がそれに引きずられ過ぎていました。
ガンを含め、病気とは、むろん誰も、望んで体験するものではなく、とにもかくにも、「降ってわいた」と受け止めるしかない「災難」です。
そうした災難に遭遇すれば、ともあれ目先の対処に取り組まざるをえません。
全摘の是非も含めて、この十年間の私の奮闘も、そういう災難対処であったということのようです。
要は、全摘をしようがしまいが、死ぬ人は死ぬし、生きる人は生きている。
五臓を摘出して、それでもしゃんと生きている建築家の安藤忠雄氏が言っています。
「ないなら、ないように生きる」。
私の場合、「あろうが、なかろうが」、その究極のゴールを追求する、ということです。 詳細記事
全摘、是か非か
以前から、漠然とした構想はあったのですが、今一つきっかけをつかめず、ここまで来てしまっていました。
それが、先の二度目の生検の結果、私の前立腺ガンのステージが、早期から中期に移っていることが判明しました。
そして、これがこの優柔不断に踏ん切りをもたらしてくれまして、本『両生歩き』の「リタイアメント・オーストラリア」に、この新たなシリーズを掲載してゆく決心となりました。
題して《「人生二周目」独想記》。
その表向きは、コーキ高齢者による、ブログ発行の編集後記という触れ込みです。そして一見するところ「孤独な闘ガン記」かのようですが、それに尽きません。むしろその含みは、海図なき大洋に漕ぎ出してゆく、《冒険航海日誌》です。
そういう次第で、その初回のタイトルは、「全摘、是か非か」。